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2012年10月20日土曜日

「嫌い」について

「嫌い」について。

要は体験に過ぎないのですから(とは言っても体験こそ全てですが)、「好き」「嫌い」があっても良いと思います。

でも、「好き」「嫌い」の判断はどこからくるのでしょう?
もちろん、価値観ですよね。
ですから、価値観から判断(ジャッジメント、判決、決めつけ)をした結果です。
それは個人の物差しに過ぎず、言い換えれば色眼鏡で決めつけてるわけです。

価値観による決めつけ。。。
それは戦争の種です。
結局は、今この現実を自分で創っていることがよく分かりますよね。

「好き」「嫌い」がいけないということではなく、それに伴う責任は個人個人にあるということですね。
自由意思だけ要求していて責任放棄しては、そういう現実を投影することになりますから。
なんか、知らず知らずにそういう状態を招いてる人が多いように思えてしまいます。

もっとも、そう思ってしまった時点で、そういう人が多いという現実を自らも創ってしまっているという事実を僕も認識します。
でも、気づいたら、受け入れたうえで手放すことが出来ます。
内包しつつ超えるという言い方が合ってるかな?
気づくこと、大事ですね!

では、僕に「好き」「嫌い」は無いのか?
「好き」「嫌い」というと違和感を感じるんです。
これを「合う」「合わない」という言葉に置き換えれば、シックリきますね。
合わない人はいるけど、嫌いな人はいないということですね。

「好き」「嫌い」も二元性ですよね。

「好き」「嫌い」
「良い」「悪い」
「光」「闇」

ただ、「好き」「嫌い」を「合う」「合わない」というイメージでいる人もいるでしょうね。
じゃあ、「合う」「合わない」は二元性なのか?と考えますと、それは違う気がします。単純に性質の違いだからです。「水」「油」のように。

「光」「闇」も性質が違うだけじゃないのか?と思う人もいるでしょう。
「光」「闇」は性質が同じで、方向が違うだけのものです。

「合う」「合わない」という言葉だけを捉えると、同じ性質のように見えますが、性質が違うから「合う」「合わない」という感覚を持つわけです。

戦争の種となる「価値観による決めつけ」を普段からしているから、戦争が起きる現実を創造してしまっているので、お気を付け下さいということを、言いたかったのだと思う。

これは、昨日の朝風呂でのハイヤーセルフとの自問自答です。

しつこいようですが、どっちが良いとか悪いとかということではないので。

以下はツイッターにも書いたんですけど、関連するのでコピペします。
自分が創っている現実を他者に責任転嫁して、他者を否定・排除し、言動と行動が矛盾してることに気づかない人もいるかもね。
自身で現象化(創造)しているのに。
そして、そんな周波数の仲間と集まりだし、互いに正当化して安心する。

誰かのことを書いたわけではなく、ただ、そういう可能性のある人を稀にお見受けしてます。
いいことを言ってたり、いいことをリツイートしてたりするんですが、普段のツイートが矛盾している。。。
仲の良い人達では無く、殆ど絡んでいない方々。

ちゃんと理解してないから矛盾しちゃうんでしょうね。
勘違いなら良いんですけどね。
でも、本人にしか分からないでしょうしね。
ま、本人にも分からないかもね。分からないから、そうしてるんだから。

気づくことが大事。
どうやって気づくんでしょうね?
他人から言われても、なかなか消化しきれない。理解出来ない。
だから、「導かれるか」「促されるか」されて、体験から気づくのがいいでしょうね。

その一方で、僕は僕で"気づき"がありましたので、僕が学ぶために現象化しただけなのかも知れませんね!

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