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2013年8月8日木曜日

この世は「神が人間を育成する場」ではない。「神が人間として遊ぶ場」だ。

(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み/雲 黒斎)より

この世は「神が人間を育成する場」ではない。「神が人間として遊ぶ場」だ。
(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み/雲 黒斎)

全体意識を閉ざし、分離を経験することで可能になる自己認識。
自由と選択を経験するため、あえてつくられた「苦悩(不完全)の道。
神が神である自覚を失うからこそ広がる、神としての自覚。
それが「リーラ(神の遊戯)」だ。
(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み/雲 黒斎)

人間は「さとり」で生まれ、成長過程で「さとりを閉じる」。そこを経緯して「さとりを開く」。
最初に「閉じて」いなければ、「開く」という経験ができないだろう。
(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み/雲 黒斎)

「空」の次元から見れば、「無明」という概念そのものが消えてしまう。
「理解していない」という立場とともに、「理解している」という立場も消失してしまうんだ。
(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み/雲 黒斎)

「空」の次元には、「無明」という概念は存在しない。
「死」や「老い」などという概念もない。
だからこそ、それらを「乗り越える」ということ自体ができないんだ。
(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み/雲 黒斎)

どんなに勉強しても、どんな修行をしても、どれほど徳を積んでも、そういったことは一切意味をなさない。残念ながら、それで「空」を知るに至るわけではないんだよ。
(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み/雲 黒斎)

君が人一倍勉強を続けて、たくさんの情報を得たとしても、それはあくまで「情報の蓄積」。情報と理解は別物だから、情報を超えた次元の「気づき」が必要なんだ。しかし、「気づき」には因果が存在しない。
(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み/雲 黒斎)

どれほど強く「理解しろ」と言われても、理解できないことがあるように。「気づき」「理解」は努力の結果ではない。因果を超えたハプニングなのだ。
(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み/雲 黒斎)

何かをしようとするあらゆる意図が、すべて落ちきった状態のことを「瞑想」と呼ぶんだ。瞑想は手段でもツールでもない。「結果」なんだよ。
(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み/雲 黒斎)

瞑想は、するものではなく起こるもの。「恋に落ちる」のと同じように、「瞑想に落ちる」んだよ。
それは、自我の意図によって生まれるものじゃない。自我の意図の及ばないところからの働きかけによって起こるものなんだ。
(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み/雲 黒斎)
 

 


ありがとうございます。

弥栄!

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