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世間を捨てて山に篭り、ただ座り続けてもあなたの真の解放にはならない。

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あなたは、正義で在りたい、と思うかもしれない。 悪い奴を排除するのが正義だ、と考えているかもしれない。 だが事実は、 そのような考えは、悪を作り出す原因になっている、ということだ。 悪の存在を認め、悪の存在を強化している、ということなのである。 ("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ) 観念で観念を解放することはできない。 しかし、観念を解放する前に、一つだけ新しい観念を持たねばならない。 それは、観念を手放すことが大切だ、という観念である。 ("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ) 何も起きていない、全ては愛である、と認識することが真の<赦し>なのである。 ("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ) 世界のことを真剣に考えれば考えるほど、世界は真剣な顔を見せる。 だから、ひとたび真実を垣間見た者は、 真剣さがかえって仇となることを熟知している。 あなたが何かを真剣に考えれば考えるほど、現実味が増すからだ。 ("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ) 世間を捨てて山に篭り、ただ座り続けてもあなたの真の解放にはならない。 なぜなら、世界と対面しなければ、 あなたにどのような観念があるのか、 あなたは知ることができないからだ。 ("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ) ありがとうございます。 にほんブログ 村

瞑想と日常は、共に必要であり、両者は一つとならねばならない。

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("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)より 目の前の全てに、 あなたの内側にあった透明なスペース、 その無、 その空、 その静寂と沈黙があるのはわかるかね? 今この目の前にグラスが置かれている。 その内側と外側の空間が同一のものであるように、 あなたの身体の内側とあなたの身体の外側にあるその無もまた同一のものだ。 その無は全てを含有している。 知的に、『私は身体ではない』と理解するのはいいことだ。 そして体験を深めるのもまた大切なことだ。 だが、常に注意深く、自分自身の観念を観照し続けるはもっといいことだ。 またそれが、体験を深めていくことになるだろうから。 ただ静かに座り、瞑想してその静寂に身を委ねるのは必要不可欠である。 それは大切だ。 だが、その状態ではなかなか根深い観念は現れてこない。 それは無意識に隠れたまま、出番を待ち続けている。 その出番とは何か。 それが日常である。 日常の生活にこそ、 自分自身にどのような観念があるのか、 自分はいったい何を真実だと思いつづけているのかを、 明確に知ることができるチャンスがあるのである。 それは、常に<在る>でいるということだ。 これを忘れないようにするがいい。 瞑想と日常は、共に必要であり、両者は一つとならねばならない。 それは、常に<在る>でいるということだ。 自分にはどのような観念があるのか、に気づき、 それを手放そうと思い、そして<在る>に留まりなさい。 その後、実際に観念や信念を解放するのはあなたではない。 あなたには何もできない。 なぜなら、思考も観念もあなたのものではないからだ。 あなたがここで知る必要があるのは、 あなたに浮かぶ思考と想念に気づき、 『ああ、私は未だに自分を身体だと思っている』と知り、 『でも、この観念は自分に平和と幸福をもたらさない』と再認識し、 それからただ<在る>ことだけである。 これをよく理解するがいい。 これは、毎日あなたが行うことである。 なぜなら、それが真実の自己に帰る道だからである。 これが、<旅>なのだ。 ありがとうございます。 にほんブログ 村

全ては、目覚めが起きれば全て解決される。 なぜなら、自分には何一つ必要なものはない、 他者にも何一つ必要なものはない、 自分や他者や全てが、すでに完全に満たされている、と明確に理解するからだ。

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("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)より 探求者は尋ねた。 「師よ、私にはまだまだたくさん知りたいことがあります。 神とは何か、悟り、解脱、ヨーガ、マントラ、超自然能力、奇跡、 人を一瞬にして癒すヒーリング、祈り、次元上昇とは何か……。 質問だらけです。 どうか、全て答えて頂けますか? 私は全てを身につけたいのです」 「まず、目覚めなさい。 それだけだ」 「はい、しかしそれら全てを身につけたいのです。 知りたいのです」 「習得してどうするのかね?」 「もちろん、人の役に立ちたいのです」 「幻想とは変化である。変化とは永遠ではない。 よって、永遠でないものに、永遠の幸福はない。 それでどうして、本当に人を救うことができるだろぅか。 もちろん、多少は役に立つだろうが、世界を救うことは不可能だ。 だが、<本当の私>には世界を救うこともまた可能なのだ。 幻想世界は、それが幻想ゆえにいずれ消え去るものだ。 そこで何を求め、何を得られるというのだろう。 得られるものはまた、全て消え去る運命にあるものなのだ」 「・・・そうですね。確かにそうです」 ある御方は答えた。 「いいかね、 それら全ては、目覚めが起きれば全て解決される。 なぜなら、自分には何一つ必要なものはない、 他者にも何一つ必要なものはない、 自分や他者や全てが、すでに完全に満たされている、と明確に理解するからだ。 だからこそ、なんら力のない幻想、すなわち現象に余計な時間を費やさず、 何よりも直接目覚めを探求すべきだ。 まず目覚め、それから世界で遊びなさい」 「確かにそうかもしれません。おっしゃる通りです。 では、どうすれば目覚めが起きるのか、どうすれば悟れるのか、 どうか教えて頂けますか?」 ありがとうございます。 にほんブログ 村

「目覚めとはすなわち、自分とは何かを知ること、ただそれだけだからだ。」神秘体験をしたとかチャネリングが出来るとかと、目覚め、悟りとは関係がない。

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("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)より 確かに、偉大なる光明があるかもしれないし、人類のはじまりから終わりまでをヴィジョンにおいて見ることになるかもしれない。(中略)だが、それらが重要だとは決して言えないのだ。 なぜなら、目覚めとはすなわち、自分とは何かを知ること、ただそれだけだからだ。自分が唯一無二の完全、永遠の絶対者であると自己認識すること、ただそれだけが重要なのだ。もしそれを知ることができないなら、どのような体験をしたとしても無に等しいのだ。 ("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ) 至福もまたあるかもしれないし、ないかもしれない。だが、目覚めまでの過程のどこかで至福の経験はあるのが常だろう。というのは、至福とは本来自らに備わっているものだからだ。自己そのものだからだ。それは得るものではない、すでに<在る>ものだ。 ただ、それを忘れてしまっているだけなのだ。だから、今は無いけれども、それが得られるように感じられる。それは、今いる場所から異なる境地に行くことのように感じられる。だが、事実はまったく異なるのである。 ゆえに、境地ではなく、自然な状態に戻るだけのことだ、というのである。あなたが、本来の自己に帰っていく時、至福、それは自然に現れてくるものなのである。舞台から降り、役を演じ終えてほっと一息つく。 あなたはあなた自身に戻った。あなたはあなた自身を思い出した。ただそれだけのことなのだ。至福がやってきても、それに捕らわれてはいけない。それを越えて絶対無まで戻らねばならない。それを覚えておくがいい。 ("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ) 体験とは、幻想世界の出来事に過ぎず、幻想は幻想なのである。輝かしい神秘体験をイメージしてはならない。イメージしていた通りに神秘体験が起こったなら、それは<心>が作り出した単なる幻想に過ぎない。 ("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ) 真の神秘体験とは、認識の変化である。何か超自然的な体験をしても、身体を抜け出してどこかへ行っても、それは幻想世界の出来事だ。目覚め、悟りとは関係がないと言ってもいい。い...