確かに、偉大なる光明があるかもしれないし、人類のはじまりから終わりまでをヴィジョンにおいて見ることになるかもしれない。(中略)だが、それらが重要だとは決して言えないのだ。
なぜなら、目覚めとはすなわち、自分とは何かを知ること、ただそれだけだからだ。自分が唯一無二の完全、永遠の絶対者であると自己認識すること、ただそれだけが重要なのだ。もしそれを知ることができないなら、どのような体験をしたとしても無に等しいのだ。
("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)
至福もまたあるかもしれないし、ないかもしれない。だが、目覚めまでの過程のどこかで至福の経験はあるのが常だろう。というのは、至福とは本来自らに備わっているものだからだ。自己そのものだからだ。それは得るものではない、すでに<在る>ものだ。
ただ、それを忘れてしまっているだけなのだ。だから、今は無いけれども、それが得られるように感じられる。それは、今いる場所から異なる境地に行くことのように感じられる。だが、事実はまったく異なるのである。
ゆえに、境地ではなく、自然な状態に戻るだけのことだ、というのである。あなたが、本来の自己に帰っていく時、至福、それは自然に現れてくるものなのである。舞台から降り、役を演じ終えてほっと一息つく。
あなたはあなた自身に戻った。あなたはあなた自身を思い出した。ただそれだけのことなのだ。至福がやってきても、それに捕らわれてはいけない。それを越えて絶対無まで戻らねばならない。それを覚えておくがいい。
("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)
体験とは、幻想世界の出来事に過ぎず、幻想は幻想なのである。輝かしい神秘体験をイメージしてはならない。イメージしていた通りに神秘体験が起こったなら、それは<心>が作り出した単なる幻想に過ぎない。
("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)
真の神秘体験とは、認識の変化である。何か超自然的な体験をしても、身体を抜け出してどこかへ行っても、それは幻想世界の出来事だ。目覚め、悟りとは関係がないと言ってもいい。いいかね、真理だけが<私>を自由にする。それは理解と自己認識なのだ。
("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)
個人的な<私>が消え去り、<それ>が<それ>自体に目覚めるのである。<それ>が、ただただ自分自身に目覚めるのである。その時、自分に必要なものは何もない、と自己認識し、また、自分は完全に満たされていることも明確に自己認識するのである。
("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)
目覚めれば、生活の一切が必要なく、どこか超人のようになって生きていく、ということではない。ゆえに、禅では有名な言葉がある。「目覚める前、薪を割り、水を汲む。目覚めた後、薪を割り、水を汲む」と。
("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)
目覚めた者とは、ただ自身の完全さだけを観ている者なのだ。
("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)
真理は必ず<私>を自由にする。完全に解放する。信頼するがいい。真理は、必要なものなど一切ない、と教えてくれる。全てはすでに完全だ、と教えてくれる。そしてそに教えてくれる真理とは、あなた自身のことなのである。
("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)
ありがとうございます。
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