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2013年6月24日月曜日

瞑想と日常は、共に必要であり、両者は一つとならねばならない。

("それ"は在る ある御方と探究者の対話/ヘルメス・J・シャンブ)より

目の前の全てに、
あなたの内側にあった透明なスペース、
その無、
その空、
その静寂と沈黙があるのはわかるかね?

今この目の前にグラスが置かれている。
その内側と外側の空間が同一のものであるように、
あなたの身体の内側とあなたの身体の外側にあるその無もまた同一のものだ。
その無は全てを含有している。

知的に、『私は身体ではない』と理解するのはいいことだ。
そして体験を深めるのもまた大切なことだ。
だが、常に注意深く、自分自身の観念を観照し続けるはもっといいことだ。
またそれが、体験を深めていくことになるだろうから。
ただ静かに座り、瞑想してその静寂に身を委ねるのは必要不可欠である。
それは大切だ。
だが、その状態ではなかなか根深い観念は現れてこない。
それは無意識に隠れたまま、出番を待ち続けている。
その出番とは何か。
それが日常である。
日常の生活にこそ、
自分自身にどのような観念があるのか、
自分はいったい何を真実だと思いつづけているのかを、
明確に知ることができるチャンスがあるのである。
それは、常に<在る>でいるということだ。

これを忘れないようにするがいい。
瞑想と日常は、共に必要であり、両者は一つとならねばならない。
それは、常に<在る>でいるということだ。

自分にはどのような観念があるのか、に気づき、
それを手放そうと思い、そして<在る>に留まりなさい。
その後、実際に観念や信念を解放するのはあなたではない。
あなたには何もできない。
なぜなら、思考も観念もあなたのものではないからだ。

あなたがここで知る必要があるのは、
あなたに浮かぶ思考と想念に気づき、
『ああ、私は未だに自分を身体だと思っている』と知り、
『でも、この観念は自分に平和と幸福をもたらさない』と再認識し、
それからただ<在る>ことだけである。
これをよく理解するがいい。
これは、毎日あなたが行うことである。
なぜなら、それが真実の自己に帰る道だからである。
これが、<旅>なのだ。





ありがとうございます。


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